こんな方におすすめ
- 中国映画・ドラマの「なぜエロがないのか?」という文化的理由を深掘りしたい人
- 西洋的官能と東洋的官能の違いを比較して理解したい人
- 表現規制の裏に潜む“創造力の美学”に興味がある人
目次
ドラマではNG、映画ではOK?―検閲制度の二重構造
中国における映像作品の表現規制は、国家ラジオ映画テレビ総局(SARFT)が全権を握っています。しかしこの監督体制には、「ドラマ」と「映画」で明確な二重構造が存在します。
ドラマは、一般家庭や地方テレビ局での放送を前提としているため、倫理・教育・思想のいずれの観点からも“公共性”が求められます。制作前には企画書を提出し、登場人物の職業・人間関係・恋愛描写までを細かく説明しなければならず、脚本段階で審査を通らなければ撮影自体ができません。撮影後も編集・放送直前に再度チェックが入り、たとえ放送後であっても「世論にそぐわない」という理由で修正・削除されることがあります。
恋愛表現は特に厳しく、キスシーンの時間は数秒以内、ベッドシーンは禁止、露出の多い衣装や過度なボディタッチも「社会的風紀を乱す」として削除対象です。こうした厳しさの背景には、テレビが家庭の中で共有される「教育メディア」であるという認識があります。親と子が一緒に見る番組で性的暗示を含む描写があってはならない、というのが基本理念なのです。
一方で映画は、その公共性の枠外に位置しています。映画館という「選択的空間」で上映され、観る・観ないを個人が選べるという点で、テレビとは明確に異なります。そのため、検閲は上映前に一度行われるだけで、放映後の修正や削除は基本的にありません。表現の自由度は高く、社会問題や心理的葛藤、さらには性愛のようなタブーに触れることも可能です。
もちろん、映画にも限界はあります。露骨な性描写は「低俗」や「わいせつ」と見なされれば却下されます。しかし、性を通して人間の感情や社会矛盾を描く“芸術性”が認められれば、むしろ国内外で高く評価される傾向にあります。つまり、「性を描く」こと自体が問題なのではなく、「どう描くか」が問われているのです。
結果として、ドラマは「規範を守る芸術」、映画は「境界を探る芸術」という住み分けが生まれています。表現者はその差を熟知し、ドラマでは“抑制美”を、映画では“心理的官能”を追求することで、自国の制度を逆手に取った独自の表現世界を築いているのです。
性愛を描いた中国映画たち―“芸術”として許される官能
中国映画史をたどると、性愛を題材にしながらも検閲を乗り越え、国際的に評価された作品がいくつも存在します。
たとえば王家衛監督の『春光乍洩(ブエノスアイレス)』は、香港映画ながら大陸でも物議を醸した作品です。同性カップルの関係を描きながら、性的倒錯や情念よりも、“孤独と自由”という哲学的テーマを前面に押し出したことで、芸術作品として認められました。またロウ・イエ監督の『ロスト・イン・北京』は、都市の格差と欲望を映し出した問題作として、一時上映禁止処分を受けながらも、後に海外映画祭で高く評価されました。
これらの作品の共通点は、性愛が単なる“刺激”ではなく、“人間の存在そのもの”を描く手段であるという点です。性は人間の弱さや孤独、社会の歪みを象徴する“比喩”として使われています。だからこそ、検閲を通過する可能性がある。表現の本質が倫理ではなく「芸術」であると判断された瞬間、性は“問題”から“美”へと昇華するのです。
また、こうした作品の多くは、光や音、カメラの距離感といった映像的手法によって官能を表現します。直接的な裸や行為を見せずとも、手の震え、汗の粒、夜の静寂が心の欲望を映し出す。まさに“語らぬ愛”を美学に変える文化的特徴が見て取れます。
中国映画の性愛表現は、決して「解禁されたエロ」ではありません。それはむしろ、「封じられた表現の中でどう人間を描くか」という知的闘いの結果生まれた“許された官能”なのです。
海外配信で露わになる「2つのバージョン」
配信プラットフォームの登場によって、中国国内外で同一作品が異なる編集を受ける現象が顕著になりました。
例えばドラマ『永遠の桃花』や『琅琊榜』では、国内放送版とNetflix版でカット数が異なり、後者ではより自然な恋愛描写や長いキスシーンが残されています。これは単なる商業的判断ではなく、“文化的最適化”の結果でもあります。中国では倫理的基準に配慮し、放送用に修正する一方、海外では「不自然に切られた編集」は批判を招くため、オリジナルに近い形で公開するのです。
また、iQIYIやYoukuなどの動画プラットフォームでは、“海外向け特別編集版”を同時配信するケースも増えています。中国国内では検閲を通すために抑えた演出を施し、海外向けには制限のないバージョンを出すという、いわば“二重構造的プロデュース”です。
この現象は、中国の映像産業がいかにグローバル市場を意識しているかの証でもあります。国内向けには「倫理と秩序を守る」建前を維持しつつ、国際的には「芸術性と多様性」をアピールする。表現の自由と統制が共存するこの複雑なバランスこそ、現代中国エンタメの本質と言えるでしょう。
抑制の美学が生んだ“見えないエロス”
中国では、性的表現の制限が厳しいほど、創作の側は“見えない官能”を磨いてきました。
俳優の指先が触れる瞬間、カメラが視線を追う角度、音が消える静寂──それらのすべてが“抑制の中の情熱”を語ります。観る者の想像力を喚起し、心理的距離を縮める演出は、欧米の直接的な性愛描写とは対照的です。
「見せないこと」が美であるという感性は、古来の中国文化にも通じます。詩経や唐詩に見られる婉曲表現、書や水墨画における“余白の美”。それは、何かを語らずに伝える“間”の美学です。
この美意識が現代映画やドラマにも受け継がれています。過剰なリアリズムよりも象徴的な構図、官能よりも余韻。結果として、観る者の中で感情が完成する“内なるエロス”が成立しているのです。
つまり中国の作品における性愛表現は、「抑えた情熱の芸術」。露骨な映像ではなく、沈黙や仕草、光の陰影で語る。そこにこそ、西洋にはない東洋的な官能の深みが宿っているのです。
まとめ
中国の映像作品における性愛表現は、西洋的な“解放”とはまったく異なるベクトルで進化してきました。ドラマにおける徹底した検閲は、単なる抑圧ではなく「公共の秩序を守るための芸術統制」として制度化されており、その反面、映画には“芸術としての自由”が部分的に残されています。
この二重構造の中で、クリエイターたちは巧みに線引きを読み取り、時に制度を逆手に取りながら“間接的官能”を磨いてきました。ドラマが「倫理と教育」を担う媒体であるなら、映画は「感情と哲学」を描く表現の場。
結果として、中国映画は“見せない愛”の文化を発展させ、視覚的刺激ではなく心理的緊張と余韻で観る者の感情を震わせる独自の官能美を築いてきたのです。
それは単なる規制回避の副産物ではなく、むしろ東洋的美学が磨き上げた“沈黙の情熱”の結晶。光の陰影、指先の震え、静かな吐息――そのどれもが語らぬままに愛を伝える。
「エロスを描けない国」だからこそ、「見えないエロス」を極めた中国。そこには、自由と制約の狭間で生まれる創造の豊かさが息づいています。