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征服王朝と中国の長い歴史。ドラマ「燕雲台」の内容紹介も最後に!

中国ドラマ専門家

中国ドラマ歴5年。中国版大奥に始まり、現代版の恋愛物や陰謀論系等様々試聴してきました。このブログでは単にドラマレビューを公開するだけではなく、中国の文化や歴史的背景が内容の展開にどのように影響を与えるのかに関しても考察をしております。

学びを求めている方には面白いと思いますし、中国ドラマの内容が理解しづらい、という方にも何かしらのお役に立てるのではないかと思います。

このブログでは中国ドラマとその背景にある史実の関連性に関して考察しています。
皆さんは中国ドラマに対してこのような疑問をお持ちではないでしょうか?
① どれが味方でどれが敵なのかよく分からない。
② 話数が多くて一度読み飛ばすと流れがまるで分からなくなる。
③ そもそも演者の顔が似ていて誰が誰か分からない。
当ブログ製作者も長年中国ドラマを観てきていますが、特に見始め当初は内容を把握するのに一所懸命で本来楽しむべきところ、半ば勉強のように視聴していたのを思い出します。元々中国語学科卒なのでドラマの中の中国語のブラッシュアップの目的で始めたのですが、そういうわけで中国歴史の学習まで目的となり、ハードルが少々上がったわけです苦笑
とはいえ中国4000年の歴史とはいえど、テレビ局が300局あるような国では各局がこぞって人気の歴史ドラマを制作するが故に、時代や内容が「被る」ことはちょくちょくおきます。なので、「あぁ、前のドラマでもこの闘いに関して取り上げてたなぁ。」とか、「同じ皇帝でも描写の仕方が変わると全然印象が違うなぁ。」と感じることがあるわけです。
それでも、いまだにきちんと理解できていない事象もあります。それが、「征服王朝」。名前からしても穏やかではないんだろうというのは察しがつきますが、じゃあこれがどういう経緯でこのような名称になったのか、どのような実例があるのかを紐解いていきたいと思います。(ちなみに中国語読みでも征服王朝と言います。)

征服王朝とは

中国の歴史における征服王朝とは、漢民族以外の異民族が中国本土を征服し、王朝を樹立して統治した時代を指します。代表的な征服王朝には、遼(契丹族)、金(女真族)、元(モンゴル族)、清(満洲族)が挙げられます。これらの王朝は、それぞれ異なる民族的背景を持ちながらも、中国全土または大部分を支配し、独自の統治体制や文化を導入しました。

は契丹族によって10世紀に設立され、北宋と並び立つ存在でした。契丹族は遊牧民としての特色を持ちつつ、漢民族の行政制度を採り入れ、漢文化との融合を図りました。は12世紀に女真族によって建てられ、北宋を滅ぼして中国北部を支配しました。金の統治は、漢文化の影響を受けつつも独自の風習や軍事力を保持しました。

は13世紀にモンゴル帝国が設立した王朝で、チンギス・ハンの孫であるフビライ・ハンが中国全土を統一しました。元朝は、広範な領土を持つ世界帝国として、多様な文化や民族が共存する体制を築きました。は17世紀に満洲族によって設立され、最後の封建王朝として20世紀初頭まで続きました。清朝は、漢文化の強い影響を受けつつ、満洲族の伝統を保持し、中央集権的な統治を行いました。

征服王朝は、異民族による支配という特異な歴史的背景を持ちながらも、漢民族との融合や文化的交流を通じて、中国全体の歴史や文化に多大な影響を与えました。これにより、異なる文化や制度が共存し、豊かな歴史的遺産が形成されたのです。

征服王朝の行政と統治体制の変遷

征服王朝の行政と統治体制の変遷は、異民族による支配と漢民族との文化融合が複雑に絡み合った歴史を反映しています。これらの王朝は、自らの伝統を維持しながらも、中国の既存の行政制度を改編し、効果的な統治を目指しました。

**遼(契丹族)**は、二重統治体制を採用しました。契丹族には遊牧民の伝統に基づく部族制を、漢民族には唐や宋の制度を参考にした州県制を適用しました。これにより、契丹族と漢民族の双方の統治を可能にし、地域の安定を図りました。

**金(女真族)**は、漢文化を積極的に取り入れました。遼の制度を継承しつつも、中央集権的な官僚制度を導入し、漢民族の官僚を登用しました。これにより、広範な領土の統治を効率化し、経済や文化の発展を促進しました。

**元(モンゴル族)**は、クビライ・ハンが大都(北京)に中央政府を設置し、漢民族の統治制度を採用しました。元朝は、三省六部制を導入し、漢人官僚を登用することで、広大な領土の管理を効率化しました。また、蒙古人、色目人(中央アジア・西アジア出身者)、漢人、南人という四等人制を設け、異民族を統制しましたが、この制度は社会的緊張を引き起こしました。

**清(満洲族)**は、漢文化を深く取り入れつつも、満洲族の伝統を保持しました。彼らは、漢民族の官僚制度を継承しつつ、八旗制を導入して満洲族の軍事力を維持しました。科挙制度を復活させ、漢民族の知識層を統治に組み込みました。清朝の統治は、中央集権的であり、全国を州県に分けて効率的に管理しました。

征服王朝は、異民族による支配という特異な状況下で、既存の中国の行政制度を改編し、新たな統治体制を構築することで、効果的な統治を実現しました。この過程で、異なる文化や制度が融合し、独自の行政体制が形成され、中国の歴史に重要な影響を与えました。

モンゴル帝国と元朝の成立と崩壊

モンゴル帝国は13世紀初頭、チンギス・ハン(成吉思汗)がモンゴル高原の諸部族を統一し、その後の大規模な征服活動を通じて形成されました。彼の後継者たちは、アジアからヨーロッパに至る広大な領土を征服し、史上最大の陸上帝国を築き上げました。この過程で、モンゴル帝国は中国本土も征服し、元朝の成立へと繋がりました。

モンゴル帝国の第5代皇帝であるクビライ・ハン(忽必烈)は、1271年に元朝を建て、1279年に南宋を滅ぼして中国全土を支配下に置きました。彼は大都(現在の北京)を首都に定め、中央集権的な統治体制を整備しました。元朝の時代には、モンゴル帝国の広範な交易ネットワークを利用して、東西交流が活発化し、シルクロードを通じた貿易や文化交流が盛んに行われました。

しかし、元朝の統治は内部の対立や腐敗、不安定な経済状況に直面しました。モンゴル人支配層と漢民族の被支配層の間の摩擦も深刻化しました。特に、農業生産の低下や過度な徴税が農民の生活を圧迫し、反乱が頻発するようになりました。14世紀半ばには、各地で反乱が勃発し、特に紅巾の乱が元朝の支配を大きく揺るがしました。

最終的に1368年、朱元璋(洪武帝)が南京を拠点に反乱軍を率いて元軍を打ち破り、明朝を建てました。元朝の皇帝トゴン・テムル(順帝)は北方へ逃れ、元朝は事実上崩壊しました。元朝の崩壊後、モンゴル人は北方の草原地帯に戻り、北元として活動を続けましたが、かつての栄光を取り戻すことはできませんでした。

元朝の成立と崩壊は、中国の歴史において重要な転換点を示しており、多様な文化や民族が交錯した時代の象徴とも言えます。この時代には、モンゴルの軍事力と組織力、そして東西文化の融合が顕著に見られました。

満洲族と清朝の興隆と衰退

満洲族によって建てられた清朝は、中国の歴史において最後の封建王朝として大きな役割を果たしました。満洲族は、ヌルハチが17世紀初頭に女真族の諸部族を統一し、後金を建国したことに始まります。ヌルハチの子、ホンタイジは1636年に国号を「清」と改め、さらに勢力を拡大しました。

1644年、李自成の率いる反乱軍が明朝を滅ぼし、明の最後の皇帝が自殺する中、清朝は混乱に乗じて北京を占領しました。その後、清朝は中国全土を統一し、康熙帝、雍正帝、乾隆帝の治世にわたって繁栄を続けました。特に康熙帝(1661-1722)と乾隆帝(1735-1796)の治世は「康乾盛世」と称され、経済的・文化的に最盛期を迎えました。

清朝は、漢族文化を取り入れつつも、満洲族の伝統を維持し、中央集権的な統治体制を確立しました。科挙制度を維持し、漢人官僚を積極的に登用することで、広範な領土の安定を図りました。また、対外的にはロシアや日本との外交交渉を通じて国境を画定し、領土を拡大しました。

しかし、19世紀に入ると、清朝の衰退が始まりました。内部の腐敗や財政難、官僚機構の硬直化が進む中、アヘン戦争(1839-1842)でイギリスに敗北し、不平等条約を締結することで対外的な屈辱を味わいました。その後も、太平天国の乱(1850-1864)や義和団事件(1900)など、内外の危機が続き、清朝の支配力は次第に弱まっていきました。

1908年に光緒帝が崩御し、宣統帝が即位しましたが、わずか3年後の1911年に辛亥革命が勃発し、1912年に清朝は滅亡しました。これにより、中国は2000年以上続いた封建王朝の時代に終止符を打ち、共和制へと移行しました。

清朝の興隆と衰退は、中国の歴史における大きな転換期を示しており、異民族による支配がいかにして漢民族との融合と対立を織り交ぜながら発展し、最終的には内外の圧力に屈して崩壊したかを物語っています。

ここまで征服王朝に関してまとめてきましたが、ご理解頂けていると嬉しい限りです。

それでは最後に、私自身が個人的に好きな征服王朝のドラマを紹介したいと思います。
燕雲台 The Legend of Empress

あらすじ:遼の北府の宰相である蕭思温の三女、蕭燕燕は、父と姉妹からの愛情を受け、勇敢な女性として成長されました。彼女は漢民族でありながら、遼の朝臣である韓徳譲と出会い、2人は国の未来に大きな夢を抱き、やがて愛し合うようになりました。一方、権力争いが続く朝廷では、第4代皇帝である穆宗の座を巡る争いが激しくなっていました。蕭家の三姉妹は王位簒奪の手駒と見なされ、胡輦は穆宗の弟である耶律罨撒葛に、烏骨里は初代皇帝の孫である耶律喜隠に嫁ぐことになりました。蕭家は争いに巻き込まれていきました。一方、前皇帝の息子である耶律賢は、燕燕を将来の皇后にしたいと考え、徳譲から彼女を奪おうと決意しました。

特徴:中国の歴史ドラマ『王女未央-BIOU-』で共演し、ルオ・ジンと結婚したトップ女優ティファニー・タンが、2020年初めに娘を出産した後、その美しい姿で復帰しました。彼女の復帰作がこのドラマであり、彼女が演じるヒロイン・蕭燕燕は視聴者から大きな支持を受けました。彼女は2020年のテンセントドラマで最も人気のあるキャラクターに選ばれ、2020騰訊視頻(テンセントビデオ)星光大賞でドラマキャラクター・オブ・ザ・イヤーに輝きました。『楚喬伝~いばらに咲く花~』のショーン・ドウは、燕燕と愛し合う遼の将軍・韓徳譲を演じ、凌雲徹役で高い評価と人気を獲得したジン・チャオが、燕燕を皇后に迎える皇帝・景宗(耶律賢)を演じました。

燕燕の2人の姉を演じるのは、『瓔珞<エイラク>~紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃~』のカーメイン・シェーと『琅琊榜(ろうやぼう)~麒麟の才子、風雲起こす~』のルー・シャンです。彼女たちの夫として、『王女未央-BIOU-』のタン・カイと『琅琊榜(ろうやぼう)~麒麟の才子、風雲起こす~』のジー・チェンが出演しました。その他、『ミーユエ 王朝を照らす月』のリウ・イージュン、『花と将軍~Oh My General~』のション・イールン、『陳情令』のモン・ズーイーら実力派キャストが、このドラマを盛り上げました。

個人的には、ティファニー・タンのビジュアルと演技力を兼ね備えた才能のファンで、他の作品も観てきましたが、この燕雲台は感動を呼ぶ傑作と言って間違いないと思っています。

まとめ

征服王朝に関するまとめ、非常に興味深かったです。中国の歴史は複雑で、ドラマだけでは理解しきれない部分がありますが、当ブログではそのような疑問にお答えできる情報を提供しています。日本人にとっても中国の歴史は興味深く、その奥深さを探求することは意義深いです。両国の歴史的なつながりや相違点についても解説しています。歴史を通じて、両国の文化や民俗に対する理解を深め、相互交流を促進することが、当ブログの目標です。

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